あの頃、こたつが大好きだった私が、フィンランドで出会った90年前の「寒くない窓」の記憶

90年前トリプルガラス木製サッシの画像

岩手の冬は、寒さ厳しいけれど、外で楽しむこと、しんしんと雪降り積もる夜の気配、日中は外の景色は水墨画のように色が無くなったりで、それなりに好きな場面や瞬間がありました。

でもね、まだ遊んでばかりいる中学生だった頃の私には、冬は遊んでいる時間以外はただの我慢の季節でしかなかったかもしれません。

昭和の冬の記憶と「こたつの魔力」

私が育った家は、ごく普通の日本の木造の平屋住宅です。 冬になると、ブリキの薪ストーブの周りは暖かいもののそこ以外は家中当たり前のように寒かった。朝、布団から出るのが何よりも辛かった。

学校から帰ってきても、玄関を入った瞬間の「ヒヤッ」とする空気は、風がないだけで外と違わない。 家の中でも吐く息は白い、靴下を履いていても足の裏から体温が奪われるので今のように裸足生活なんて考えもしなかったです。

そんな私の唯一の聖域、それが「こたつ」でした。

 あの頃、こたつが寒さから逃れ、安心して眠れる唯一の場所。

薪ストーブの傍で寝込んでしまうと火傷してしまいますから。

背中が寒くても、下半身さえ温かければあわよくば首まで入ればなんとか生きていける。 テレビ見るのも、うたた寝も、すべて暖かいこたつの中。 たまに、みかんを食べすぎて指先が黄色くなるまで、こたつの住人化していたあの頃が懐かしいものです

今振り返れば、滑稽なほど小さな世界で寒さをしのいでいたのです。

でも、当時の私は、それが「冬には家も寒いのは当たり前のだ」と思っていました。

ファンヒータの登場で、暖房器具のパワーが足りないのかな?

くらいなことは思っても、家が熱を逃がし続けてる。なんて思いもしなかったです。

その矛盾に気付き始めたの事実のは、私が住宅建築の世界に足を踏み入れ、私の知らない領域を求める施主さんたちのお陰でした。そして家中が暖かく過ごすアメリカの家との衝撃的な出会いまで待たなければなりませんでした。

 住宅屋として求めた「本当の暖かさ」の答え

大人になり、住宅建築のプロとして家づくりに携われるようになると、昔の子供の頃の「当たり前の寒さ」が、実は世界では当たり前ではないのでは?ということに気づき始めます。

暖房をつけているのに、なぜ足元がスースーするのか。

それは、日本の家の多くが「夏を旨とすべし」という古い教えを引きずり、冬の寒さに対して無頓着で無防備すぎたからでした。 特に窓は、熱伝導率が高い(つまり熱を伝えやすい) アルミの枠に、薄いガラスが1枚入っているだけ。それを当たり前だと思っていたのですから、外の世界を知らないと、どれだけ損してたのかと今なら思います。

そんな窓だと、暖房の熱を外に捨てているようなものです。

岩手の冬でも、アメリカのようにTシャツで過ごせる本当に暖かい家を作りたい!

から始まった私は、断熱先進国であるドイツや北欧の住宅にに求めるようになります。

90年前のタイムカプセル、パイミオへ

フィンランドの深い針葉樹の森の中に、その白い建物は静かに佇んでいました。

1933年に建築された結核患者のための療養所。 ちなみに、結核は不治の病とも恐れられ、当時特効薬はなかったようです。

パイミオサナトリウム (2)の画像

建築家であるアールトは、この建物全体を巨大な「医療器具」として設計したのだそうです。患者が室内快適に、ストレスなく過ごせるか。その考え方が、ドアの形状から照明に至るまで、狂気じみたレベルで徹底されています。

パイミオサナトリウム (1)の画像

この環境を観ると、新鮮な空気と光が、当時唯一の治療薬だったとの考え方がよくわかります。

この館内を観て回っていた時です。当然窓フェチな私は窓をチェックしまくります。ペアガラスかあ。

でも、ふと、私の視線は窓に留まりました。

90年前トリプルガラス木製サッシの画像

それは、重厚な木製の枠を持って、とてもしっかりとした窓でした。

「この窓は、最近の改修で交換したものですか? とてもトリプルガラスで性能が良さそうですが」

ガイドさんは、私の質問に少し誇らしげに微笑んで答えます。

「いいえ、これは80年前の建築当時のオリジナルですよ。アールトが設計したそのままの姿です」

私は耳を疑いました。 1933年?80年前?日本ならまだ隙間風だらけの木造家屋で火鉢を囲っていたかもしれない時代に?

このフィンランドの森の奥では、もうこれほどの窓が実現されていたということか・・と。

 衝撃の事実:90年前の「トリプルガラス」と「隠された枠」

私は、その窓を何度も見直したものです。まず驚いたのは、そのガラスの構成です。 詳しく話を聞いて、南東西窓は主にペアガラスなのに、特に北側や冷え込みの厳しい場所にある窓は、当時としては先進的なドイツから取り寄せたトリプルガラスだったのです。

90年前に、トリプルガラス。 日本では、つい最近になって「トリプルガラスが標準になりつつある」という状況です。

しかし、私の心を震わせた衝撃は、ガラスの枚数だけではありませんでした。 窓辺に目を向けて、その「納まり(取り付け方)」を見た瞬間、鳥肌が立ちました。

  外から枠が……見えない

室内側からは木製枠が見えますが、サッシ枠外側を観てください。

窓の木製フレームの外側が外壁仕上げに覆いつくされているのがわかるでしょうか。

これは、何を意味するのか。

これは、すでに90年前から窓周囲にあるヒートブリッジ(熱橋)対策なのか?
まさに、熱橋(ヒートブリッジ)フリーの納まりそのものです。

窓に関して、トリプルガラス面よりも熱を逃がしやすい弱点は「枠(フレーム)」です。 日本の一般的な住宅では、この枠が壁の表面に露出して取り付けられることがほとんどです。 冷たい外にさらされた枠はキンキンに冷え、それがそのまま室内に伝わり、結露の原因となっています。

しかし、90年前のアールトは違いました。 彼は、窓の弱点である「枠」を、壁の仕上げ材や断熱層?で覆うことで、熱の逃げ道を物理的に塞ぎたかったのではないでしょうか。

例えるなら、

真冬にダウンジャケットを着て、袖や首元をしっかり締め、冷たなる隙間をなくしている状態

対して、私が子供の頃に住んでいた家は、ダウンジャケットの前を全開にして、暖かいカイロを抱きしめて背中を丸めている状態だったようなものです。

ああ、だからか……

90年経っても、この窓辺が寒くない理由です。結露で木が腐っていない理由。それは物理法則に則って、熱と空気の流れを完璧にコントロールしていたからではないでしょうか。

この執念と言ってもいいほどの、機能性への追求に、私は打ち負かされた気分になりました。
私らはこれに比べたらお子ちゃまどころか赤子にもなっていないかもしれないと。

 こたつから出て、100年愛される家をつくるために

フィンランドからの帰りの飛行機の中で、私はずっと中学生の頃の自分を思い出していました。

こたつの中で丸まりながら、「日本の冬は寒いのが当たり前」と信じていた自分。 家の性能が低いことに気づかず、ただ寒さを我慢していたあのころ。

1933年のフィンランドで実現できたことが、なぜ21世紀の日本で、岩手で、当たり前になっていないのか。

それは技術の問題ではなく、知ることができなかったこと、そして見えない部分にお金と労力をかける覚悟が足りなかった事、が原因かもしれません。

私たちは今、岩手で家づくりをしています。これまで、アメリカやドイツ・北欧で受けた衝撃を、ただの体験話にしてはいけない、実践することです。私たちが目指すのは、100年経っても、この家は暖かいね、いい家だね、と言われる住まいです。

そのためには、ただカタログスペックの高いトリプルガラスを選ぶだけではだめだったのです。アールトのように、その窓を壁の「どこ」に配置し、「どのように」枠を断熱材で包み込むか。 その”インストール(取り付け)の設計”こそが、家の性能を決めるのですから。

もう、岩手の子供たちに、私のような「こたつ虫」の思い出話をさせたくはありません。

家全体が柔らかい暖かさに包まれて、どこにいても快適に過ごせる。 冬の朝、布団から出るのが楽しくなる暮らし。

そんな当たり前の幸せを、90年前の北欧の知恵と最新の技術を掛け合わせ、岩手の人たちの暮らしを北欧やドイツと同じように当たり前にする。いつの間にか、それがその世界を知ってしまった私たちの使命になっているのかもしれません。

最後に、私の単なる興味で、

ところでトリプルガラスへの進化って、日本と北欧・ドイツではどう違うのだろ

てことで調べてみた結果を簡単にまとめてみたものを紹介しておわります。

トリプルガラスドイツと日本の歴史の画像

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です