
私が学生を終え住宅業界に就職したばかりの時、
既に彼は一線の大工として現場にいた。
先輩には、社内でも一番信頼されている大工だと紹介された。
和風住宅で名を馳せた会社である。。
その中で一番と言われた大工の前では新人の私なぞはただの赤子。
現場監督見習いそして新人の私は、
今思えば彼の現場には相応しくなかったような気がする。
こごはどうやって納めればいいんだ?
・・・・
こっつのここは?
・・・・
なら、こっつのは?
・・・・
こんなごどもわかんねってが!?
だいがぐでなに勉強すてきたってよ?
はんかくせえなあ。
これが現場で初めて交した1対1での会話。
私は現場では何も答えられずただ立っているだけの無用な人間だった。
現場を去る車中、自分の無能さが悔しくて情けなくて叫んでいた。
今の私が、海外に限らず建物や家で気になるポイントを見る時、
必ず「納め方」を観る、想像する癖はこの時のおかげだ。
納めには図面化されるものと、現場で合わせるものに分かれる。
現場でのすり合わせとなれば大工との知恵の出し合いであり、
裏付けられるだけの大工の持つ経験と技能があって成立する。
分らないことを先輩に聞き、
それを現場や刻み場で一服の時間に話のネタに投げかけてみる。
最初は聞き流していた彼が、いつしかコーヒーまでご馳走してくれて、
ぶっきらぼうな言い方だったが教えてくれるようになった。
そんな状況でも彼の存在はずっと怖い人のままだった。
その後、私が転職、独立。
その度に断られる覚悟で恐る恐る
私の仕事を手伝ってもらえないべか?
と連絡してみた。
・・・
今すぐだば無理だども・・・ いがべ!
と了解してくれた。
気がつけばもう34年、ずっと私の家づくりをを支えてくれた。
あんな海のものとも山のものともわからぬ二十代の若造の求めに応じ、
ずっと応援してくれた、
私の中ではこのことが今の今でもずっと不思議でならないのだが・・・
その彼が、ついに引退する。
現場にはいつも彼がいるものだと思っていた。
彼のいない現場を想像したことなど一度もない。
けど、彼の引退は今現実のこととなった。
一年前、
申すわけね、、、あど来年一年でおらあ終わりだ。
もういいんだじゃあ、
とすだぁじゃ、オラももう70過ぎだ、、
と、寂しそうな声で宣告は受けていたものの、
それでもそのまま現場に彼はいてくれるような気がしていたのだ。
現実を私が受け入れたくなかっただけなのかもしれない。
だが、現実は必ず目の前に歩み寄る。
昨日、有志が集まり彼への引退式&感謝の会を持った。
集まってくれたのは40人。
私からの感謝の言葉は涙腺が壊れ消えてしまっていたが、
集まった人の口々から聴こえてくる言葉から、
共に現場で働いてきたくさんの人たちに敬われ慕われてきたことがわかる。
彼の最後の花道はやはり私と30年来の付き合いのある職人の自宅建替えとなった。
彼が現役であるうちに、彼に建てて欲しかったと明かす。
皆、家づくりを支えてきた盟友なのだ。
ずっと語り継がれる大工なんて、そんなにいるわけじゃない。
正真正銘、私は語り継ぐ。
私が、うちの会社が、今あるのは彼のおかげだったと。
長い間、お疲れ様でした!
これまで一緒に仕事できたことに心より感謝しています。
ほんとうにほんとうに、ありがとうございました!
こんなすごい方に、家を建てていただけたなんて、感動です。現場での無理な注文にも何でも答えてくれて大変感謝しております。本当にありがとうございました。
親方の絶えることない探究心と、素晴らしい大工さん。
奇跡の組み合わせが素晴らしい家の数々を生み出してこられたんでしょうね。大工さんも親方の考えた家を建てることで、ご自分だけでは建てられない作品を生み出すことにやりがいを感じてこられたので、ここまで頑張ってきたんではないかと思います。泣けますわ。
藤原さん、そう言って頂けると彼も喜ぶと思います。
今度会ったら伝えておきますね^^
KENKENさんのおっしゃるようなら私もうれしいですね。
当社にはベールに包まれたあるスペックがあります。
それは現場で彼とある納め方でせめぎ合った時、
それいい、それ最高でしょ!!てなことで
生まれたスペックなんですよ^^