昭和な道の記憶

お盆の墓参りは例年通り、実家⇒墓参り⇒親戚廻りコース⇒一休みzzzをたどるお決まりのコース。
もし今年違ったとすれば、酔い覚ましに周辺をぶらり散歩したこと。

(1)

密林に列車が呑み込まれでもしそうな線路。


この光景に、水泳パンツだけの裸んぼ少年4人程の後ろ姿が重なった。
彼らがこの線路を利用するのは往きの片道のみ、この道を戻ることはしない。

少年たちのうしろ姿は、
真っ黒か斑に皮が剥けてるかどちらかで、手にはヤス、頭には水メガネを装備。
時折跳ねるようなしぐさをするが、それは陽射しで熱した石を踏んだ時だ。

裸足で線路を歩くにはコツがある。
木でできた枕木はそれほど熱しないのでその上を歩く。
場所によっては枕木が砂利に埋まっていたりすると、
次の枕木まで走り抜けるか、脇の草地まで熱した石を我慢し2、3歩跳ねるかのどちらか(笑

線路を歩くメンバーは小3から小6くらいまで、4人~6人で編成される。
このメンバーこそが川でヤスでもって魚突きできる選りすぐり部隊だ。
川下りしながらヤスで魚突きできないと、川では一人前の男としては見てもらえない。

このチームに加わったからと言って、最初からヤスを持てるわけではない。
最初は川下りに馴れるために、レギュラーが捕った魚を持つだけの役目で魚持ちをやらされる。
それがヤスを持つ前の見習い期間。

見習いでも川下りメンバーになれるだけでうれしいものだった。
川下りメンバー以外は火まぶり(守り)として残され、薪となる枯れ枝を集め、
メンバーが戻るまでに火床をつくっておく役回りとなる。
時には野菜やくだもの集めに味噌醤油の調達までやる。
それらは自然冷蔵の川や沢水で冷やすからいつでもおいしく食べられる。

線路を川上へ2キロほど歩くと川下りを開始。
2~3時間で皆のいる水泳場へ戻る。
獲物はウグイを中心に、ヤマメ・イワナ・アユ・川ガニ、そしてうなぎが時折混じる。

うなぎを仕留めたりしたもんなら、もう一日天下をとったようなもの(笑

たき火の周りに串刺しで魚をあぶりながら食べながらの皆で過ごす時間、
逃がした魚、見た魚の大きさを競い合う自慢大会、
これがぼくらには極上の晩餐だった。

いつだったかその晩餐もプールの登場で消えた。
裸どころか線路を歩く悪がきさえも見ることなどなくなったけど、
あの頃確かに歩いた道。

低学年の頃は専ら釣りだった。
比較的多かったのが、餌無しで即できる毛バリ釣りだった。
裏の竹藪から作った一本竿だから仕掛けは張ったままで自宅下の河原へ。

(2)

写真上部から釣り始める。
その下、

(3)

ここはヤマメがつく場所なので丁寧に時間をかけながら釣り下がる。

(4)

ここは遊泳禁止場所だったが緩い流れの深みで危ないが
岩肌ばかりで見晴らしもよくみんなで遊ぶには都合の良い場所だったのに・・・

(5)

上方の中州は確率は低いが捕れたうなぎはでかい。
1m近いのがあがったことも。
にしても右岸にほとんど草木はなかったはずなのだが、、、

(6)

ここに着くころは大体真っ暗な時間帯でさすがに8時頃になると、
心配したおふくろが名前を叫びながら捜しにくる。
声と懐中電灯の光線の目印に位置を確認した上で、
「ここさいだあ、そっから〇メートルすただ」とへんずする。

釣りを止め、迎えにきたおふくろに会えば会ったですぐさま怒られる。
そんなことはわかっているのだが、この繰り返しだった。

今回気付いたのだが、いつの間にやら薮やヨシに覆われるだけ覆われ、
そのせいであるはずの白い石の河原も岩場も見ることができなくなっていた。
昔は刈ったり焼いたりして管理していたはずなのに・・・
いつからこうなったのか・・

岸辺の道など今は跡形もない。

自然が占める田舎だから、視界はずっと変わらないものと思っていた。
過疎化、子どもたちがいない、川を利用する住民もいないからか、
人間を受け付けない自然へと戻っているようだ。

私の記憶とはまったく重なることのない故郷の風景・・
考えたことはなかったけれど、
いつかそんな時が来るのかもしれない。

というか、そこまで生きていないか^^;

 

 

岩手のハウスメーカーなら。

 

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